選考委員

写真森村 誠一氏

埼玉県熊谷市生まれ。青山学院大卒。9年間のホテル勤務を経て、「高層の死角」で江戸川乱歩賞、「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受賞。「人間の証明」「青春の証明」「野生の証明」の「証明」三部作で現代日本を代表する推理小説作家に。その後も歴史・時代小説、ノンフィクションなどへも作品の幅を広げ、精力的に執筆活動を展開している。



写真夏樹 静子氏

東京生まれ。慶応大学英文科在学中に「すれ違った死」が江戸川乱歩賞の最終候補に。NHKの「私だけが知っている」のシナリオ執筆を笹沢左保氏らとともに務め、「ガラスの鎖」で作家デビュー。「天使が消えていく」が江戸川乱歩賞次席、「蒸発」で日本推理作家協会賞、「第三の女」はフランス訳され、冒険小説大賞に。女流推理作家の草分け的存在。


写真北方 謙三氏

唐津市生まれ。中央大学法学部卒。「明るい街」で作家デビュー後、純文学作品を発表。『弔鐘はるかなり』で初めてエンターテインメント作品を書き、人気作家に。『眠りなき夜』で第1回日本冒険小説協会大賞と吉川英治文学新人賞、『渇きの街』で日本推理作家協会賞、『明日なき街角』で日本文芸大賞、『破軍の星』で 柴田錬三郎賞など。


第14回九州さが大衆文学賞 笹沢左保賞受賞作
お試し期間 水城亮
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カット
 十月半ばの日曜日。
 昨夜から降り続いた雨もあがり、窓から陽光が差し込んでいた。眠気まなこをこすりながら、枕元の目覚し時計に目をやった。十時。いつもの時間。私は、四足の爬虫類のように、のそのそと布団から這い出すと、そこかしこに脱ぎ散らしてあった、よれよれのジーパンとシャツを拾って着込んだ。それから、部屋の隅に掛けられていたジャンパーをひったくるように取って、無造作に羽織った。
 外に出た直後のことだった。
 物陰から、奇異な視線を感じた。その源泉に目を向けると、少女がひとり、ぽつんと立っていた。年齢は七、八才といったところだろうか。切り揃えられた黒髪に、白のジャケット、藍色のパンツ。色白で、繊細な感じのする、目鼻立ちの整った少女だった。少女は、身動きひとつせずに、私のことをじっと見つめていた。
 私は、小首を傾げた。近所では、見掛けたことのない娘であった。最近、どこかで会ったという記憶もなかった。が、少女は、明らかに私を凝視していた。その眼光は、挑みかかってくるような鋭さが含まれていた。しかし私には、見知らぬ少女から、そのような目で見つめられる覚えはなかった。
 私は、ジーパンのポケットに両手を突っ込み、少女に背を向けて歩き始めた。驚いたことに、少女は一定の距離を保ったまま、私の後を付いてきた。私は、普段の速度で歩いたつもりだが、私と少女では歩幅が違う。ことさらに振り切るつもりはなかったが、少女との距離は自然と開いていった。少女は遅れがちになると、ところどころ小走りに駆けて、私との距離を懸命に保とうとした。それはまるで、母親に置き去りにされそうになった幼児が、必死に追いすがろうとするかのようだった。私は途中、足を止めて、後ろを振り返った。すると少女も、合わせたように足を止めて、その大きな瞳で私を見つめるのである。おかしなことになったと、私はわずかな困惑を覚えた。が、私はもともと、他人に対して、余分な関心を持たない性分であった。そのまま、歩き続けた。
 二十分ほど歩くと、目的地に付いた。公園のベンチに腰を下ろした。ゆるやかな風が爽快にわたり、秋の陽射しが心地よかった。家族連れ、カップル、友人同士。多くの人々が、のんびりと、楽しげに私の目の前を往来した。今日が休日だということに、私は迂闊にも、今になって気が付いた。そういった感覚が、私の中で薄れかけている証拠だった。自分が、世間一般という言葉から外れた存在であることを、あらためて思い知らされた。が、別に淋しくはなかった。こうした、自ままな生き方が、私にはふさわしいのだ。
 のどかで平穏な風景だった。そんな中、唯一、日常と異なっていたのは、少女の存在だった。少女は相変わらず、一定の距離を置いて、私を睨み据えていた。さすがの私も、いささか気になってきた。が、近寄って話しかけることもしなかった。他人に干渉することは好まなかった。見つめるという行為自体は、少女の自由であった。そういうことを不愉快に感じる人間もいるのだろうが、私は頓着しなかった。
 そうしているうちに、少女の方から、意を決したように、私に向かって歩み寄ってきた。傍まで来ると、少女は立ち止まった。私は、ベンチに腰掛けたまま、少女に視線を向けた。私と目が合っても、少女は少しのたじろぎも見せずに、毅然としていた。あらためて観察すると、澄んだ瞳に、端整な顔立ちをした、滅多に見掛けないほどの美少女であった。私は、ある種の驚異のようなものを感じた。
 私は、無言で身体の位置をずらし、ベンチ脇にスペースを作った。腰掛けるように促したつもりだったが、少女には通じなかったようだった。少女は、その場に立ちつくしたまま、私を見つめ続けた。
 この不自然な状況に、先に根負けしたのは私の方だった。こんな子供でも、女性の忍耐力というのは、侮れないものらしい。
「こんにちは、お嬢さん」
 私は、相手に恐怖感を与えないように、愛想笑いを浮かべながら、なるべく友好的な声を発したつもりだった。が、少女の気難しい表情は変わらず、その小さな唇も閉ざされたままであった。
「なにか用かな」
 私は、少女を懐柔しようと試みた。が、少女はむずかる嬰児のように、微笑みひとつ見せてはくれない。
 私は溜め息をひとつつくと、おもむろに立ち上がった。少女は、不意を突かれたのか、ちょっと驚いた表情をして、私を見上げた。私は少女を置いて、立ち去ろうとした。その瞬間、少女の小さな唇が開かれた。
「しょう」
 確かに、そう聞こえた。私は、えっと思わず声を漏らした。突然、発せられた少女の愛らしい声に戸惑ったというだけではなかった。少女が初めて口にした言葉。それが、久しく聞かなかった私の名前だと認識するのに、多少の時間を要した。
「今、なんといったんだ」
 私が少女に確認を求めると、少女は、理解の悪い生徒にうんざりした教師のように、眉をひそめた。
「しょう」
 少女は、私にはっきりと聞かせるためか、先程よりも、いくらか大きな声を出した。
「それは、誰かの名前かい?」
 私がやんわりと尋ねると、少女は右腕を水平に上げ、私に向かって、その小さな指を突き立てた。
「どうして、俺の名前を知っているんだ。どこかで会ったかな」
 少女は憮然として、首を左右に振った。そして、
「しょう」
 と、また私の名前を繰り返した。
「誰かに、俺の名前を聞いたのか」
 私は、いくらか詰問調に語気を強めた。が、少女は、私の名前以外は、なにも話そうとはしなかった。
「俺はろくでもない人間だが、一応、年上の人間だし、まして初対面だ。そういう相手を、いきなり呼び捨てにするのはよくないな」
 私は言いながら、年端もいかない子供に説教をしている自分がおかしくなった。そもそも私自身、他人に道理を説けるような生き方をしてきていないではないか。
 少女も、私のような男に叱責されるのは心外だとでもいいたげに、その綺麗な顔を曇らせた。そして、
「しょう」
 と、オートリバースのように、繰り返し、私の名前を口にした。
 私はうんざりした。少女が醸し出している独特の雰囲気に、いわれのない威圧を感じていた。凛としていて、頑固なまでの強さ。私のもっとも苦手とするタイプだ。
「行くよ」
 私は少女に宣言して、その場を離れた。今度は、少女も追いかけてこようとはしなかった。その場に佇みながら、立ち去る私の姿を見送っていた。まるで、無為で自堕落な毎日を送っている私を、非難するかのような目であった。私は、その視線から逃れるように、歩みを速めた。

 翌日、夕方。
 私は、アルバイト先の居酒屋に入った。
 六時くらいから、ぽつぽつと仕事帰りの客が入り始めた。私は、客席の合間を縫うように動き回り、酒や食事を運んだ。八時をまわった頃には、席はほとんど埋め尽くされ、忙しさもピークに向かう。目まぐるしいが、私は、この店でもベテランの部類に入っていたし、似たような仕事は、これまでにも、それこそ数え切れないくらいに経験してきた。私は、次から次へと押し寄せてくる仕事を、片端からさばいていった。両手一杯に、料理皿やジョッキを抱え込みながら、客から呼び止められれば、すかさず応対し、オーダーを取った。他のバイト仲間に、適宜、指示することも多かった。調理場や洗い場の手が足りなければ、臨機に手伝いにも入った。
 店長は、私のことを便利な古参として重宝し、些少ながらも時給を上乗せしたりして、なにかと優遇してくれた。他の同僚も、陰では定職に付けない落ちこぼれと、私のことを嘲笑しているようだったが、表面上は最年長者として立ててくれていた。つまらない矜持さえ持たなければ、悪くない職場だった。
 が、一度、覚えてしまえば、工夫も創造性も必要としない仕事だった。多忙だが、単調であった。三十近い男が、若者に混じって、酔客の間を駆け回る姿は、珍妙としかいいようがなかった。が、私はそれでよかった。面白い仕事ではなかったが、気楽だし、慣れ切っているから、余計なことを考えずに、淡々とこなしているだけで済んだ。社会のはみだし者かもしれないが、他人に迷惑を掛けているわけではなかった。アルバイトならば、誰も期待しないし、辞めようと思えばいつでも辞められた。いてもいなくても同じ存在。私は、あえて自分がそういう人間であることを望んだ。通常の社会人ならば、必然的に絡み付いてくる、煩わしい人間関係などは、一切、願い下げであった。
 閉店後、後片付けと清掃をすませ、店を出たころには、午前二時を回っていた。私は、それなりの疲労と睡魔を抱えながら、とぼとぼと家路を歩いた。見上げると、雲間から、月が顔を覗かせていた。私はふと、昨日の少女のことを思い出した。少女は、私のことを「しょう」と呼んだ。懐かしい響きだった。
 姓ではなく、名前で呼ばれたのは何年振りだろう。記憶を遡ってみると、二年半前に別れた彼女以来だった。彼女も私のことを「しょう」と呼んだ。そして、昨日の少女のように、私を怜悧な瞳で見つめ、辛辣な台詞で小言を繰り返した。私は、彼女に頭が上がらなかった。それなのに、彼女と過ごした時間は、いつも快かった。
 そんなことを思い浮かべているうちに、私の脳裏に、忘れかけていた昔の記憶が、順々に甦ってきた。

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