第15回九州さが大衆文学賞 笹沢左保賞受賞作

title_left.jpg title_right.jpg
 
1 2 3 4 5 6 7 8

 俺は今、あいつとのいざこざで医療少年院にいる。
 正確には「あいつら」というべきだろう。複数の身体を持っているから。ごくごく微細な特技や見かけで「個性」を主張しながら、街中のいたる所に溢れている。八方美人でどんなやつにもすぐ馴染む。IT成り金にも八百屋の親父にも、雑誌を見ないと今日の服が決められないOLにも、「うちの」を枕詞にしないと会話ができない主婦にもだ。殺した人間の数を忘れてしまった犯罪者と親密でも違和感はない。目と耳が丸くて大きい真っ黒な鼠に服を着せて「可愛い」と騒ぐ高校生と手をつないでいてもお似合いだ。だが俺から見ればクローンのようにそっくりで、元をたどればたった一つだ。一つだけ。そこから分化して広がったのだ。だから「あいつ」と単数で呼ぶ。
 俺の罪状は殺人だ。審判をした男は俺が妄想にとらわれていたと決めつけた。妄想はどっちだと俺は反論した。刹那刹那の現実を身体を張って生きることなくあいつの世界に入り込んだら、実空間で起きるすべてが事実の重みを失うのだ。まさに妄想が支配する世界ではないか。だから俺は粉砕の一撃を与えたまでだ、と。
 だが言えば言うほど精神鑑定はおかしな方に進んでいった。

写真
 俺の育った家は粉飾抜きの貧困家庭だ。専門学校出の父は四十を目前にリストラされた。俺が小学校に入学したばかりの頃だ。無理して買った中古マンションは手放さざるを得なかった。それでも多額のローンが残り、父は昼は時給九百円、夜は千円のアルバイトをかけ持ちすることになった。収入はローンの返済と生活費ですっかり消える。だから、母が父のリストラと前後して家を出ていってくれたのは幸運のうちかもしれない。慰謝料も、あの時生まれたばかりだった弟の養育費も請求されなかったから。それがあったら、父は一日三十時間働いても食って行けなかっただろう。
 もの心ついた頃、俺にも母に手を引かれて歩いた時代があった。住んでいたのは千葉県の北西部、茨城県境に近いある地方都市だ。JRの駅までバスで三十分もかかる辺鄙な場所だが、人口は増加し続けていた。大きなマンションが林立し、朝夕はどの道も人通りが絶えない。まだ一人で留守番できない幼児だった俺を、母は毎日のように買い物に連れて出た。片手はスーパーの買い物袋、空いた手が俺のものだった。
「今日はなあに」
 母の手にぶら下がりながら俺はいつも夕飯の献立を尋ねた。母が「わからない」と言う日はおとなしくするに限る。「お魚」などと返事があれば多少のおしゃべりが受け入れられる祝日だ。心なし緊張しながら母の顔色をうかがったものだ。
 その日は小言を言うような口調だったが返事があった。「スパゲティ」これは大好物だ。母を見上げて思い切り笑いかけた。
「ほんと? ほんとにスパゲティ?」
 母はちらりと俺を見ただけで黙り込んでしまった。きっとスパゲティのソースで服を汚すのを心配しているんだ。そんなことしないから大丈夫だよ。そう伝えようと母の手を握りしめる。まさにその瞬間、母は俺の手をほどいてこちら側に買い物袋を持ちかえた。目の前を白い袋に占領され、俺の手は宙に浮いた。
 母は荷物が重くて手が疲れたのだろう。それなら反対側に行けばいい。俺は母の後ろから回っていった。
 そこに、あいつがいた。母は聞いたこともないような華やいだ声をして笑っていた。
 一瞬、足が止まってしまった。母とあいつの間に割り込むことができない。足がすくんで踏み込めないのだ。今、母の頭にはスパゲティのことも俺もこともない。不思議なくらい、それはわかった。こんなに近くにいるのに母を笑わせているのは俺ではない。母は本当に楽しそうだ。俺なんかよりずっと嬉しい相手なのだ。
 急に不安になって、俺はさっきまで俺のものだった手に買い物袋を押し退けるように自分の手を割り込ませた。
「ちょっと則之、痛い」
 激しい拒否の響きだった。非難の目を向け、荷物を揺すって俺の手を振り払う。俺はますます不安にかられた。
「うーうー」まだ言葉が十分に操れない俺は音を発することしかできない。何度も膝を折り体を上下させてわめいた。母の視線は他人を見るより遠くなり、俺から離れた
 このまま母に見捨てられそうな気がして、俺は必死にあとを追いかけた。あいつと一緒に歩く母の背中には現実感がなかった。触れることはできる。その身体は手の届く所にある。けれど心はここにない。母は身体という幻を残し、あいつとどこかに行ってしまったみたいだ。俺は地上にたった一人、突然放り出されたのだ。つないでいた手が離れただけではない。もっと大きな距離ができてしまった。そこに孤独が押し寄せてくる。踏みつぶされそうだ。
「うーうーうー」張り裂けそうな思いでもう一度わめいた。
 唐突に、あいつが消えた。俺の呪縛が解けた。けれど母の横にまだあいつの残像があって近づけない。母の心はまだここに戻ってきていないのではないか。中身のない身体に触れるのは恐ろしい。
 母が振り向いた。目が俺を探している。母の心がそこにあった。母の身体に戻ってきたのだ。不安が一気に消え失せて、世界が色を取り戻す。俺は母の手に、俺のものになった手に飛びついた。
「今日はスパゲティ、だよね」
 審判を待つ気持ちで俺は母を見上げた。
「そうよ、スパゲティ」
 母は微笑んだ。取り繕うような微笑みだった。それでも嬉しかった。けれど一度不安を刻印されたら、相手からそれを完全に払拭してもらうまで元通りにはなれないのだ。またあいつがなんの予告もなく現れて、母の心を持っていってしまうのではないか。対抗する知恵も経験もない俺は、ただひたすら母の手を握りしめた。
 不安はあたった。同じことが五回、六回と繰り返された。そのたびに母もあいつも大胆になり、俺の存在は反比例して縮小した。やがて、母はあいつとしゃべった後で俺に微笑むこともなくなった。
 今もまた、母は俺を背後にくっつかせあいつと歩いている。すぐ近くにいてもいないのと同じだ。その時ふと思いついた。母と俺は本当はどれくらい遠いのか、目に見える距離ではかってみよう。
 方法は簡単だ。一歩ごとに歩幅を縮めればいい。少しずつ母が遠ざかる。間に他人が一人入った。でもまだ感じる距離より近い。母は振り向かない。俺は歩数も減らした。俺を追い越す大人が一人、不審な目を向けて通りすぎる。まだ中途半端だ。さらに速度を落とす。いつしか俺は栄養失調で倒れる寸前のように足を引きずっていた。母はどんどん遠ざかる。俺は立ち止まって後ろを向いてみた。あいつと母に背を向ける、この方向が正しい進路なのではないか。しかしどこへ向かえばいいのかわからない。仕方なくまた振り向いた。するとあいつと母の姿は、間を歩く二人の大人の背中に隠れて見えなくなっていた。
「これでいい」
 思わず呟いた。俺の感じる心の距離と現実の身体の距離が等しくなったのだ。触れることはできるのに心はここにない身体が視界にあるのは嫌だ。心がないなら姿も見たくない。このまま行けば母もあいつも見なくてすむ。乾いた、硬質な安心感が広がった。俺は立ち止まって空をながめ、大きく息を吸った。その分、自分が重くなったように感じた。俺の足が地面を踏みしめているのがわかる。なんだか大人になった気分だ。もう母なしでも立っていられるじゃないか。それなのに涙が出そうだ。
「則之!」
 突然、母が目の前にあった。急に空間の距離が縮まって俺は混乱した。耳に高音が響き、頬に痛みが走り、足元が揺れた。母の掌と俺の頬の距離は一瞬、なくなった。母は怒っている。母の腕を半径とする空間に、今は俺と母だけだ。
「なに笑ってんの!」
 母の言葉を信じるなら俺は笑っているのだろう。そんなつもりはないのだと頭を横に何度も振ったが、それはますます母を怒らせたらしい。俺の腕を、肩が抜けてもかまわないという勢いで引っ張って連れ帰ろうとした。俺には母の怒りが理解できなかった。けれど怒りという感情を、その時俺は独占していた。
 では怒らせれば、母は俺だけを見つめてくれるのだろうか。数日後、俺はこの仮説を試してみることにした。
 これも方法は簡単だった。スーパーの小物をポケットに入れて店の外に持ち出したのだ。もっと小さくてもっと何もわからなかった頃、同じことをして父に叱られたことがあったからこれが悪いことだという認識はあった。俺は店を出たところで母にそれを見せた。すると母は驚いてあたりを見回し、声をひそめて囁いたのだ。
「こんなことが見つかったら怒られるよ!」
 誰が怒るのだろう。母ではないようだ。見つからなければ母ではない誰かは怒らないのか。いずれにしろ、母との距離を「適正」に保つ実験ほどは効果がなかった。母は俺の頬を打たなかったし、あの時ほど心が近寄ってきた実感もなかったから。
 ではまた母との距離を作ってみようか。俺はできなかった。次は母が知らんぷりで行ってしまうように思えてならなかったのだ。それを知ってしまいたくない。あれは最後の手段だ。
 結局、母がどんどんあいつに近づいて行くのを手を拱いて見ているだけだった。泣いてもわめいても無視されるのが恐ろしく、俺は黙って、おとなしく、母の後ろをついて歩いた。
 
1 2 3 4 5 6 7 8

Copyright(c)Saga Shimbun Co.,Ltd