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 伊勢の斎宮は常日ごろから静寂に包まれております。
 神に仕えるための宮であれば清浄と静寂を求めるのはもとよりのこと、こちらに下向してからよりいっそうわたくしの口数は少なくなり、周囲の者たちも足音ひとつたてぬよう自然と振る舞うようになり、そうなれば、はるか遠くでひとこえ鳴いたらしい鶏の声が朝もやのなか響いてくることもあり、わずかな風に茂った葉をゆすらす音が聞えることもあり、幾重にもつらなる大門が開いていく重い響きも、もっとも奥まった寝殿にあっても数えることができるのです。
 斎宮寮外院正門が朝夕二度開く音はぴんとはりつめた庭先の外気にのってかすかに聞こえてまいります。また折々には、主だった役人たちが詰める中院の大門の開く音がこだまし、砂利石を踏みしめる音がいくらか聞こえることもございます。そこからもう一度聞こえれば、それは斎王づきの女官たちが控える内院に用事があった場合であるし、さらに斎王が居住する内院寝殿までにもうひとつ、門がございます。
 この日、わたくしが思わず眉をよせて
「なにごとか」
 つぶやいたのは、三度目の音がやけに荒々しく聞こえ、同時に女官たちのひそやかなささやき、やがてはざわめきさえも耳に留めたからにございます。
 問うまでもなく側づきの老女が重い腰をあげておりましたが、すでにその時には四つめの門が開く音がはっきりと聞こえ、つづいて乱れた足音がいくつも重なってまいりました。
 わたくしは居間がわりに使っている小部屋におりましたが、玉簾をかきわけて老女が庇に出るとそこに困惑顔の女官が数名いて、ひそひそと耳打ちしている様子がわかります。
 この老女はわたくしと格別の縁はなく、伊勢下向が決まったあと朝廷より差配された女官でどうやら藤原氏の命でつけられたわたくしの見張り役らしいのでした。それにしては耳が遠いのがご愛嬌だと、密かにわたくしは胸のうちで笑っておりました。
 ですから取り次ぎの女官はしだいに声だかにならざるをえず、
「配所より参られたとかで……ええ、廃后井上さま……」
 かたことをわたくしは拾うことができ、はっといたしました。
 老女が何か言う前に、わたくしはわたくしとしては本当にめずらしく、椅子を蹴るように立ち上がって乱暴に簾をあげて、
「誰が参った」
 短く、しかしするどく問いただしました。
 これまでよほどのことがない限り短いあいづちの他は口にしなかったからでしょうか、老女も女官も驚いたらしく、たじろいだ様子でわたくしの視線をさけるようにうつむいてしまいました。なおわたくしが一歩前へ出ると女官たちはさっと左右にちり、目の前に庭さきがひろがると、おしとどめようとする数人の手をふりほどくようにして来る人影があるのが見えました。
「……糸女?」
 半信半疑でわたくしはつぶやき、すると人影はむくむくとふくれあがってこちらへ駆けよってきたのです。
 階を駆け登ろうとして、この若い女はいくども足をもつれさせ、そうして見てみれば、筒袖の粗末な上着は泥によごれ、たくしあげた裾からのぞくのは枯れ木のように黒く細い足で、それは到底、わたくしのよく知っている乳母子、糸女、ではありえなかったのです。
 しかしその人影がはっきりと庇の燭台に照らされて、すぐ目の前に膝をついて顔をあげたとき、頬はこけてうなじは筋がいつくも浮き立っていたけれど、上をむいた小さな鼻やぽってりと厚い下唇、そしてなにより前歯をむいて唇をかみしめる癖で
「ああ、糸女ではありませんか」
 わたくしは甲高い声をあげていたのでした。やせおとろえた目の前の顔にふっくらとした頬をゆすって笑い声をたてている糸女の顔が重なり、とたんにわたくしはこの三年近く封印しつづけてきた、幸せな良き日々のことをまざまざと思い出したのです。
 穏やかだった幼き頃の王家の暮らし、それから急転、聖武帝直系の女帝としてお立ちあそばされた称徳女帝が皇嗣なくお亡くなりになりますと、天智帝孫王のひとりであられた父上が思いもがけず帝位におつきあそばしたのは、その父の伴侶であったわたくしの母上がかの聖武帝の皇女であり、わたくしの弟、他戸皇子が東宮となってやがては帝位につけば、いにしえの偉大な天智、天武、両天皇の血の融合となろうと臣下一同の大いなる賛意を得たためと聞いております。
 そうしてわたくしは父母とともに平城宮へあがり、父を帝と、母を皇后と仰ぎ、弟が誉れある東宮になって、わたくしは内親王として丹塗られた柱に緑釉の瓦をのせた壮麗な殿舎に大勢の女官らにかしづかれ過ごしておりました。

 糸女は、小さな荷駄を肩さきからかけておりましたが、両手をにぎりしめるようしたまま、そのままうっぷして嗚咽するばかりでした。なにひとつ波立たぬ暮らしこそが斎宮ならば、この闖入者をいぶかしる多数の女官の目に囲まれ、ましてあの老女は
「ご無礼な、こちらにおわすのは斎王さまにございますぞ」
 早口に申し立てて糸女の腕をとりいち早く連れていこうといたしますのを、
「かまわぬ、よく見知った者だ。中へ入れよ」
 わたくしはさえぎり、糸女の背を押すようにして中にはいりました。もっともそのすぐ前の庇に、老女はぴたりと座してこちらを伺っているに相違ありません。
 わたくしはただただ糸女の背をさすり、耳もとに口をよせて
「あまり声高にせぬほうがよい。わかるな」
 とまず制してから、
「よくぞここまで来てくれたな、糸女。お前のことはかたときも忘れたことはなかったよ」
気をおちつけるよう優しく語りかけました。 糸女はいったんは気が休まったように見えたのに、肩をゆらして嗚咽しはじめ、
「ああ……酒人内親王さま……御母上井上皇后、御弟君他戸親王、おふたかたさま同日同刻に……毒をあおいで自害なさりました……ッ」
 五臓六腑をふりしぼるようにとぎれがちに申したのです。
「なんと……いま、なんと申したか、糸女」
 裳裾にすがる糸女の背を見つめて、わたくしはかさねて問いかけました。
「ご、ご自害にございます……ッ」
「まさか——」
「ご自害なさったのでございます」
「……母上さまが……弟が……自害だと……?」
「ご、ご自害にございます。毒をあおがれたのでございます。御自ら、ど、毒を、毒をご所望なされたのでございます……ッ」
 わたくしが自害という言葉をきちんと理解するまでに、いったいどれぐらいの時があったのでしょう。胸の内で、自ら死を選んだ、と、ひらたく言い直してわたくしははじめてその衝撃に身をゆらし、一度は糸に釣り上げられでもしたようにいきなり椅子から立ち上がり、その糸をぷつりと切られでもしたように床に跪きました。
「あの企てにより井上皇后、他戸親王、流罪とされ、配流された大和国でのお暮らしは、それは酷いものにございました。内親王さまの御母上さまのご最期を、この目で見た地獄図を、どうかどうか、お聞き届けくださいませッ」
 うなずいたようにも、思います。あるいは、いやいやと首を左右にふったようにも思えるのです。
 どう受け取ったのでしょう、糸女は低く語りはじめたのです。
「まさかあのような、あのような過酷な日々が待っていると誰が思ったことでしょうか。
 配流といっても、貴族の別宅であることだし、しばらくおやすみになるつもりでむかわれればよいと言われ、わたくしどももそのようなつもりでわずかな身の回りの品だけ持参して下向したのでございます。
 ところが、着いてみれば貴族の山荘とは名ばかりにて、土で塗り固められた壁ははげ落ち、軒には蜘蛛の巣が無数にはり、庭の草は身の丈ほど伸びて一寸先も見通せぬ程にございました。
 みやこからの荷駄が届いていたのはほんの数回のみで、衣裳はおろか食料さえ滞りがちで、いたしかたなく従った者たちが村におりてはおそれおおくも皇后さまご愛用のお手回りの品などとひきかえに手に入れるしかなかく……」
 わたくしは両手で耳をふさぎたくて仕方ありませんでした。
 よくわかっておりました。それまでに至る事情ならば、知りたくなくとも耳にいれる者もあり、あるいはまた、わたくしから根掘り葉掘り問い詰めた時もございましたから。
 皇后位にたったわたくしの母が、ほどなく陥れられた罠……。
 夫光仁帝を呪詛した罪で皇后位を剥奪されるのみならず、愛息他戸親王の東宮位も剥奪されて、そのうえふたりそろって配所に流罪されたのでございます。わたくしはそれと前後して、伊勢斎宮に斎王として下向するむね、父帝よりお達しをいただきました。
 それにつけても、おかしな話でございましょう。
 なにゆえわたくしの母が父を呪わねばならないのでしょう。一説には他戸親王の即位を願って夫の命をちぢめようとした、とあり、また一説には父帝の実妹の命を狙って呪詛をした、といい、考えてもごらんなされませ、父帝の御歳を思えばお命をはかるまでもなくいずれは順当に他戸への譲位がございましたでしょうし、父帝の実妹であられた叔母君さまはその時すでに病もちの老齢ならばあの頃に命はかなくされたのは神の思召としか思えませぬ。
 要するにこれは、母の存在をうとましく思った誰かの差しがねで、考えてみれば、貴顕の血を持つ母がなければ廃れ皇子であった父が即位できたわけもなく、しかしこの母が失脚すれば息子である他戸の前途はとざされ、別のお腹にうまれた皇子が東宮位にたてるのだ、と、このからくりがわかったのはそれからずっと後のことでございましたが。
 ええ、斎宮での、静かな静かな、まるで毎日寸分違わぬ円を描いているような繰り返しの日々のなかで、わたくしはまわりから見れば悲しみのなか声を失い、気力をそがれた、まるで抜け殻のような女人であったでしょうが、その実、常に、わたくしの母と弟にふりかかった不幸の元を考えつづけていたのでございます。

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