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 暗くて外はよく見えないのに、潮の匂いだけは昼よりも強烈に漂ってくる気がする。
 屋根と壁はあるが、窓の部分にガラスの入っていない、中途半端な小屋のなかを、裸電球のオレンジ色だけが照らす。
 三畳ほどの広さの小屋には、俺が広げた大きな網以外、何もなく、椅子もテーブルもないから、仕方なく地面に直接座り、作業を続ける。
 もう十月。大分日が暮れるのも早くなり、日が暮れると一気に気温が下がる。俺はさっきから、誰もいないこの小屋で一人、「ちくしょう、寒い」とか、「なんで俺だけこんなしんどい仕事なんだよ」とか言いながら、仕事をしている。こんな独り言は、口に出し、自分の耳で拾うとすぐに虚しさに襲われるのだけれど、一人でいると、何か言わずにはいられない。
 赤と朱のあいだのような色をした網は、伊勢えび漁に使われるものらしい。俺はまだこの島に来て間もないからよくは知らないが、九月から翌年の四月くらいまで、この島では伊勢えびが獲れるらしい。一匹一匹がそれなりの額で売れる伊勢えび漁は、あまり産業が盛んではないこの島では、重要なものだ。……と、城が言っていた。
 そこまで思い出し、俺はまた、舌打ちをする。あいつは同い年のくせにいつもリーダーぶっていて気に食わない。
 三畳のこの狭くて寒くて暗い場所で、この場所の十倍くらいの面積がありそうな網を隅から隅まで見て、ちょっとしたほつれも見逃さずに直せ、など、ふざけるな、だ。
「伊勢えびって高いよな? ここで暮らす八代さんとか、原さんにとっては、お前が思う以上に重い金額のものなんだよ。それがお前の“手抜き”によって、手から滑り落ちていってしまう。そんなことがあっていいのか? お前の修繕した網は、フラフープで漁をするくらい使えないよ」
 昨日の朝、城の口にした言葉が蘇り、俺は壁に触れていた右足に思い切り力を入れた。今にも崩れそうな壁はでも、意外と頑丈で、ヒビが入る気配もなかった。それにまた、苛々した。
 俺は大きくため息をつき、手元の網に目を戻す。網は使い込まれたせいでざらざらしている。俺の手も、ここ数日の作業で、がさがさだ。一つ一つ、目をチェックしていく、きれいなひし形が続く。でもところどころ、ひし形の一辺が切られている。これは、伊勢えびと戦った跡なのか、伊勢えびがひっかけたはさみかなにかを守るためにわざわざ切られた名残なのか、もっと大きな魚に攻撃された跡なのか……。俺は切れた部分を見つけると、右手に持った太い針のような道具で、網を直した。
 祖父は漁師だった。父親は漁ではもう生活は成り立たせられないだろうと、東京に出てサラリーマンになった。俺は田舎に帰ると時々、祖父に連れられて漁に出たり、網の修繕を習ったりした。でも、漁師になる気はまったくなかった。会社にこき使われ、仕事はつまらないものだとばかり言う父のようになりたいとも思えず、アルバイトを転々とした。そうしているうちに三十を過ぎ、とりあえず家は出て、生計を立てられるくらいにはなるか、と、俺にしては殊勝なことを思った。でも、三十まで正社員経験のない“元若者”に世間は厳しく、俺はことごとく会社の採用試験に落ちた。ほとんどは書類選考といわれる、履歴書チェックで撥ねられた。そうか俺はもう社会からドロップアウトしていたのだと、初めて気づいた。そんなとき見つけたのが、無料で家を提供してもらえるという、この島の生活だった。外国ではなく離島での「ワーキングホリデー」みたいなものか。実際には、“ホリデー”もなにもあったものではないが。
 また、考え事をして、手が止まっていた。だんだん、どこからどこまでチェックしたのかも分からなくなってくる。
 城は“司令塔”として、人に仕事を指示し、その仕事をチェックするだけだし、瑞穂はあったかい施設の中で老人の身だしなみを整えているだけだし赤松と木村はトラックで人や荷物を運ぶ仕事がメインだし……俺だけが貧乏くじじゃないのか、そう思ったら、バカらしくなり、俺は網を繰っていっていた左手も、針を持つ右手も置き、立ち上がった。
 あと三日くらいで満月になりそうな、中途半端な大きさの月が出ていた。俺は小屋の外に出て、大きく深呼吸した。別に帰りたい場所があるわけでもなかったが、こういうとき、無意識のうちに、帰りたいなと呟いてしまいそうな自分がいた。
 一瞬、視界の隅を光が走った。明るい、人工的な光だ。俺は慌てて目をそちらに向けた。
 船?
 確信は持てなかったが、船の灯りと言われれば納得できるような光の大きさと動き方だった。でも、こんな時間に船が出ることなど、普通はない。
 急病人でも出たのか?
 俺は海の向こうに目を凝らしたが、光が遠ざかっていくということ以外、何も分からなかった。

 翌日、いつもと同じように八時半に施設に行った。施設というのは、平ったく言うと、老人ホームのようなものだ。この施設には、六十三歳から八十九歳までの約二十人のお年寄りが暮らしている。施設には看護士やヘルパーなど“職員”が当然いる。よくは知らないが、職員はみんな正社員だろう。
 俺たちは社員でもなければ、この施設の職員でもない。おおまかな括りで言えば、施設に出入りする“ボランティアスタッフ”というような立場だ。でも、お金になる“仕事”さえまじめにやってこなかった俺たちに、お金にならない純粋なボランティアを継続的に続けられるわけもなく、俺たちはただ、“ボランティアが普通するような仕事を、時給をもらってやっている”アルバイトみたいなスタンスだ。
 かっこよく言うと、こういうのは“NPO(ノンプロフィットオーガニゼーション)”活動というらしい。城はそのNPO法人のリーダーだ。多分、「社長」みたいなものだろう。
 俺たちがしている仕事は、施設に入っているお年寄りやその家族を中心に、この島に住む人が望むことをしてあげる、ということだ。簡単に言うと、“なんでも屋さん”。施設の住人がしてもらいたいと望んでいるけれど、この施設のサービス内容ではない、というような物事や、誰に頼んだらいいか分からない細々したことを請け負う。
 たとえば、“体が今より動くようになって、もう一度漁ができるようになったときのために、網の整備をしておいて欲しい”とか“毎日見舞いに来てくれるばあちゃんの送り迎えをして欲しい”とか“たまにはおしゃれな髪型にしてもらいたい”とか……そういう雑多な望みを叶えるために、俺たちはいる……というか、城のNPOは存在している。
 でも今日は、毎日決められている集合場所に城がいなかった。いつも俺たちが少しでも遅れると、「この分、給料から引くからな。仕事をなめるな」と怒鳴る城が。
 いつもなら、八時半ちょうどに、城が
「おはようございます」
 と、鬱陶しいくらい元気な挨拶をし、一人ひとりに今日の仕事を伝える。
 俺の場合は多分、「守島は網の手入れ、終わったか? 終わっていなければ、引き続き、それを頼む。でも、時間を掛けすぎだ。今、どこまで直った? 昼頃見に行くからな」などと言われるはずだった。
「なんで、あいつ、いないんだ?」
 木村も赤松も瑞穂も、さっきから壁に掛けられた時計を三十秒おきに見ながらも、黙っている。みんな同じことを思っているはずで、ということは、なぜ城がここにいないのか、誰も分かっていないはずだったが、俺はこの場をどうにか収めるために聞いてみた。
「城さんが時間に来ないなんて、今までなかったですよね」
 瑞穂が黒くて長い髪に右手の人差し指を絡ませ、弄んでから言った。
 城がいないと、なんで自分がこんな静かな施設の玄関に、面会時間の始まる前から立っているのか、訳がわからなくなる。施設の受付の女性に、「君たち、何の用?」と聞かれそうな気がする。
「一度だけあったな」
 俺たちのなかでは一番古株の赤松が控えめな声で口にした。古株と言っても、まだこの仕事を始めてから半年くらいのようだが。
「でも、あれは、四十度近い熱を出して倒れていたからな。それでも、朦朧とした意識で、朝、施設には連絡があったらしい」
 みんなそれから黙る。みんな「あいつ、偉そうだよな」と、よく城の悪口を言うが、本当は城がいないと何もできないし、俺たちのなかで城だけがまともに社会に適応している“まっとうな社会人”だとも思っている。
 俺は一瞬、昨日の夜に見た船の光についてここで話そうかと思ったが、なにか違う気がしてやめた。代わりに、
「城がいないなら、今日は仕事はなしってことで、解散しないか?」
 と提案してみた。
 今まで四ヶ月も城や施設の入居者のわがままを聞いてきただけでも、俺にしては奇跡のような頑張りだ。今日はきっと特別なご褒美だろう。
「いいね。今日は休みだ」
 四人の中では一番若い二十五歳の木村も俺に賛同し、赤松も、
「まぁ、この島のなかじゃ、休みっていったってたかがしれてるけどな」
 と、つまらなそうに言いながらも、
「日曜日のリベンジで、釣りに行くか」
 と、結局、乗ってきた。
 でも、瑞穂だけは、「ちょっと、待ってください」と、俺たちを止めた。さすがに女性にそんなか弱い声で頼まれると、一瞬であれ、動きは止まる。
「施設のほうに連絡がなかったか、聞いてみましょうよ」
 お前に指図されたくないとか、お前はそんなに仕事が好きなのかと言いたくなるが、他の三人が何も言わないので、俺も黙っている。
 瑞穂が俺たちの後ろにある窓口に行き、城さんから連絡はありませんでしたか、と聞く。窓口には、時々施設内ですれ違う五十代の女性がいて、「聞いていないけれど、来ていないの?」と眉をひそめた。まだほとんどの職員は入所者のところを回る前の準備段階で、自分の机に座っていたから、女性は振り返ってみんなに城からの連絡が来ていないか確認するが、なんの情報もないようだった。
「とりあえず、昨日の続きの仕事をして、待っていたらどうかしら?」
 女性がしごくまっとうなことを言う。俺たちは施設の人間ではなく、施設に出入りする業者のような立場だったが、そんな俺たちにも“仕事の先輩”らしくアドバイスをくれたようだった。
「そうですね」
 城がいないなら休んじゃおうよ、と思い何も言わない俺たちの前に立ち、全員の思いを代弁するかのように瑞穂が言い、頭を下げた。でもそのあとで、まだ納得はできていないというように、
「ちょっと電話してみる」
 と、今度は施設の外に出て行った。俺は面倒になって、施設の中で待つことにする。
 瑞穂が携帯を取り出し、ボタンを押しているのが、入り口のガラス扉越しに見える。俺は特に何も考えず、ぼんやりと瑞穂の動きを見ている。瑞穂はここに来る前、美容室で働くスタイリストだったらしい。でも、彼女の髪の毛は、パーマやカラーなどしたこともないというように、まっすぐで黒く、しかも一本一本の髪が太くたくましく見えた。ただ、それに比べ、体は細く、あまり頑丈そうではない。前の仕事を辞めたのは、仕事が忙しすぎて体を壊したからだと自分で話していた。
 ジーンズにささやかな模様の入った白いシャツを着た瑞穂は、清楚で美しく見えた。思わず、ガラス越しに、見惚れる。

 でも瑞穂本人は、携帯を握り締めたまま、顔をしかめている。
 しばらくすると、瑞穂は携帯を耳に当てることもなく、俺たちのところに戻ってきた。
「誰か、城さんの携帯の番号、知っていますか?」
 あ、と思う。俺たち四人は携帯の番号を教えあっているし、俺たちが遅刻したり、無断欠勤をすると城から電話が掛かってくるから、俺たちも城の電話番号を知っている気でいた。でも、城から掛かってくる電話はいつも施設からのものだったし、城の連絡先というものを聞いた記憶がなかった。
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