梧竹・蒼海について

激しい時代を「書」でもって対峙した二人

 佐賀県内のみならず、日本国内の書道界で名を馳せた中林梧竹と副島蒼海(種臣)は1820年台後半のほぼ同時期に生まれ幕末の混乱期、明治維新、文明開化、佐賀戦争(佐賀の乱)、日清・日露戦争といった激動の時代を共有するかのように生きていきます。こうした日本が近代国家として形成する厳しい時代を、二人は直接的にも間接的にも「書」という形で積極的に関わり、時代に揉まれ多くの名筆を残すことになりました。政治家でもあった蒼海は外務卿として欧米列強と厳しい交渉や度重なる政変の中で「書」も変遷していきます。書家で評論家でもある石川九楊氏は蒼海の豪放な筆致を「超書」的な書法と評し、政界から身を引いた後の明治9年ごろから顕在化し明治16年ごろ全盛期を迎え、同25年ごろにはその完成形に至ったと論じています。字画や文字を描く角度を、書史上ありえないような筆触で揮毫し、石川氏は「焦燥」「挫折」「逆転」との三つのキーワードで蒼海の書の中にある新時代の要素を指摘しています。一方、梧竹は5歳の時、藩祖を祀った神社の献書会で畳一枚ほどの紙に大書したほど幼いときから書家としての片鱗をみせます。蒼海とは違って、藩校入学後、書への研鑽を重ね、明治維新後、中国に留学し日本各地を訪れ数々の書を残しました。書の伝統を重んじながら、その上に独創性を生かした造形美を果敢に挑み、梧竹の作品は「百代の新風」とも呼ばれ、多くの書家に衝撃を与えました。二人の書は激しい時代に対峙し、結果として形式に囚われない書を編み出したといえるでしょう。(参考文献=『佐賀藩』川副義敦著、『没後100年記念 蒼海 副島種臣―全心の書―展』佐賀県立美術館編、『中林梧竹の書』日野俊顕著)

「中林梧竹」について

 写真 1827年4月19日生~1913年8月4日。明治三筆の一人。小城藩士中林経緯の長男として小城郡小城町(現小城市小城町)新小路に生まれる。名は隆経、梧竹は号である。15歳で藩校興譲館に入り、19歳のとき藩命で江戸に遊学し、書を山内香雪、また香雪の師市川米庵に学ぶ。帰藩後は藩の子弟に経書を講じ、藩政に携わった。1871(明治4)年廃藩置県で職を辞し、長崎に赴いて書に専念した。長崎では清国人林雲逵・余元眉に益を受けた。ことに余元眉は潘存に学んで金石学にくわしく、秦漢、六朝の碑版、法帖をたくさん持っていたので、その益を受けることが多く、梧竹の書はこれから大きく転回していった。
 1882年梧竹56歳のとき、余元眉のすすめで、清国に渡り、北京で潘存に学ぶ。潘存は金石学者で、当時中国における有数の能書者であった。清国滞在18カ月。その間、潘存の指導で書の源泉にさかのぼって殷周の古文から秦漢の篆書、隷書、六朝北派の楷書を研究した。また余暇に各地を巡って視野を広め、碑版法帖を入手した。帰国後、副島種臣などの紹介で銀座の伊勢幸の青木竹子方に寄寓することになり、竹子、姪のこう、いくの好意で、29年間研究に専念することができた。梧竹芸術は、この伊勢幸で完成した。
 梧竹堂書話に「百代の新風を樹立する」とあるが、現在でも梧竹の書は高く評価される。65歳のとき、十七帖の臨書を天覧に供し、明治天皇から御衣を賜った。1908年、小城郡三日月町(現小城市三日月町)に観音堂および梧竹村荘を建立したが、そのお祝いに皇后から宝帳を賜り、宮中女官12人から和歌をいただいた。
 翌年3月3日には皇后から御香筥を賜った。梧竹が感激して書いた「御賜御香筥記」は中村家に保存されている。梧竹は1912(大正元)年発病(中風)。翌年5月10日伊勢幸を辞して梧竹村荘に帰り病を養ったが、8月4日没した。死の5日前に小城藩時代その被官であった徳広源吉の二男袈裟吉を中林家の嗣子として入籍した。梧竹村荘はその遺族によって守られている。墓所は小城郡三日月町(現小城市三日月町)金田の長栄寺にある。
《出典=佐賀新聞社刊【佐賀県大百科事典】土肥春嶽・記》

 梧竹書「前途」

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佐賀新聞の1面で中林梧竹の死亡広告を掲載・1913(大正2)年8月7日
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                                                      ※「佐賀新聞」の題字は蒼海揮毫

副島蒼海(種臣)について

 1828年9月9日~1905年1月30日。明治の元勲。佐賀藩校・弘道館教授枝吉忠左衛門種彰(南濠)の二男として佐賀市鬼丸に生まれる。兄は勤皇家として有名な枝吉神陽。14歳で元服し二郎龍種と名乗る。23歳の時、兄神陽の首唱うる「義祭同盟」に参加。翌年、京都に留学。1859年31歳の時、父死去。同年佐賀藩士副島和忠の養子となる。37歳の時、長崎でフルベッキから英学を学ぶ。1867(慶應3)年大隈重信らと脱藩、上京して尊皇倒幕運動に参加したが捕らえられて佐賀に送還、謹慎を命じられる。1868(明治元)年新政府の参与、制度取調局判事となり、翌年、参議。1871年渡欧の岩倉具視に代わって外務卿となり、在職中に樺太境界についてロシアと談判、横浜港寄港のペルー商船から中国人奴隷231人を解放し(マリア・ルス号事件)、正義人道の人として副島の名は海外に知れわたった。また、清国に渡り日清修好条約の批准書を交換。1873(明治6)年10月、西郷、板垣、江藤らと征韓論を唱えて辞職。翌年、板垣らと民選議員設立建白書を提出、その後は政府の勧誘にもかかわらず役職を引き受けず、数ヵ年清国を歴遊。1879年一等侍講、1886年宮中顧問官、1888年枢密院に列す。1892年松方内閣の内務大臣になったが3ヶ月で辞任、再び枢密顧問官となる。勲一等、伯爵、77歳で死去。《出典=佐賀新聞社刊【佐賀県大百科事典】記・空閑正和》

副島蒼海の書について

 副島種臣の書は余技である。しかし、当時の一流の書家に比肩して少しも遜色がない。種臣の学書は弘道館に学んだ時代に始まると思われるが、35歳の時、兄神陽の死を伝える口達があるが、すでに骨格のしっかりした格の高い書である。種臣の書に一転機をもたらしたのは、1876(明治9)年から2ヵ年の清国漫遊である。当時、清国では碑学が盛んに行われた時であるので、漢魏六朝などの碑版に関心を持ったに違いない。50歳後半からその傾向が現れるし、60歳代になるとますます六朝あるいは秦漢の風気が加わってくる。種臣は各体にわたり、また各時代の書家を広く研究しているが、その真似事でなく独創的である。謹厳なもの、奔放なもの、人の意表に出るものもあるが、いずれも気迫に満ち、厳粛である。しかも、格調を失わない。蒼海、一々学人の号があるが、号だけの作品は少ない。《出典=佐賀新聞社刊【佐賀県大百科事典】土肥春嶽・記》

 写真

 

副島蒼海の死去を伝える佐賀新聞・1905(明治38)年2月2日
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